NHKファミリーヒストリーに樹木希林さん登場!
最初からいつもより進行のテンポが速いと感じたのは、ヒストリーの内容が詰まりすぎていたからなのか。。


足立区の青果市場に250年続いた青果問屋「葛西屋」が希林さんの父方のルーツ。主に「蓮」を扱っていた問屋だったとか。


子孫であるはとこさんたちが語ってくれていました。


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三浦按針が祖先?!

番組が始まるときに、希林さんは自分で書いてきた家系図を見せてくれたのですが、その時16代前くらいに三浦按針?の名前を書いていたんです。


父方の姓が三浦、というところから何故か按針説が出てきたらしいのですが、それは番組の調査で、三浦按針二世(按針の息子)には子どもができなかったので、そうではないらしい、、ということに。

これで、按針の方の三浦説はなくなって、ではどの三浦か、となった時、ご先祖が寛永三年にすでに三浦姓を名乗っていることがわかりました。


ということは、江戸時代にすでに三浦を名乗っていたことで、相模の三浦一族ではないかということになりました。

大正時代に三浦家に嫁いできたのは?

希林さんの祖父、三浦眞吉さんに嫁いできたのは、飯塚歌さん。希林さんのお祖母さんですね。飯塚家は元氏族であったと書かれています。


希林さんのいとこの方が、同居していた頃の歌さんが、「武家の出で、世が世なら自分はお姫様だった」と漏らしていたと言っていました。その歌さんがとても大事にしていて、娘から孫へと門外不出にしていた書を、誰の書いたものなのか初めて調べることになりました。


歌さんは、徳川慶喜公ご本人が書かれたものだと思っていたようです。でも、幕末の古文書に詳しい専門家に鑑定してもらうと、山岡鉄舟のものだとわかりました。鉄舟は幕臣で書の達人としても知られている人。


書には「家人初方昭」と書いてあり、ここから「方昭(まさてる)」は誰か?という話になりました。


方昭は1746年、一橋徳川家の家臣になったとあります。
鑑定を進めると、徳川家と関係のありそうな手紙が見つかり、その手紙には歌さんの曽祖父:飯塚兵五右衛門の名前があります。
送り主は徳川刑部卿(ぎょうぶきょう)。


この刑部卿が徳川慶喜とのことでした!


つまり、歌さんの曽祖父:兵五右衛門さんは幼い将軍のお世話係だったのです。

希林さんの実家、中谷家は長州の茶坊主だった?

希林さんはお母さんから、祖先は長州、毛利家の茶坊主だったと聞かされていたそうです。


山口県の古文書館で調べてみると、
江戸初期に久右衛門という方がいて、現在の福井県にあった越前福井藩の出身ということがわかりました。藩主の娘が毛利家に嫁入りする際、家臣として行動を共にしたのだとのこと。


お姫様付きのお料理方役ということでした。
希林さんがお母さんから聞いていた「茶坊主だった」という話はまんざら嘘ではなかったということですね。茶坊主というのは、お茶を出すだけではなく食べることの方にも携わっていたということですから。


中谷家は代々「市左衛門」を名乗り、一番近いところで「市左衛門茂十郎」とのこと。
幕末に生まれた「茂十郎」さんが希林さんともつながりがありそう。


萩市まで行って調べたところによると、茂十郎も吉田松陰の松下村塾で学んだことがあるということなのです。
ある時、松下村塾が手狭になったので増築することになった時の茂十郎の活躍を、吉田松陰が誉めた記録が残っています。


明治維新後、茂十郎は東京に住まいを移し、明治政府の一員として主に建築部門で働くことになるのです。


明治15年、新たな部署:皇居御造営事務局に抜擢されます。
皇居御造営 の一大プロジェクトに配属されたということはエリートの1人として認められたことになります。



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希林さんの母と“カフェ東宝”

昭和17年、希林さんのご両親は結婚しています。
父親、三浦辰治さんは警察官時代、神田神保町の新天地で「カフェ東宝」を経営していた中谷清子さんを見初めて通い詰めたようです。

辰治さんのほうが清子さんより7つ年下でした。
以後、辰治さんは婿養子となり、中谷辰治となります。

明治42年、清子さんは生まれ、その2年後に父親を亡くします。
その後母と二人、故郷を離れます。


十数年後、清子さんは広島県で娘を生みます。数えで17歳でした。
詳しい事情はわからないということです。
子どもは手放しています。


22歳で京都に住み、また子どもを生みます。
今度は男の子でした。
妻のいる人との間にできた子どもだったので、その男性と妻との間に子供がいなかったため、請われるままに息子を泣く泣く手放しています。


そして、今度は東京に出てくるのです。
もともと商才があったのでしょう。
辰治さんと結婚して、最初に生まれたのが希林さん。
その希林さんが生まれる前後には、何故かアパートを建てているんです!

戦争で何もかも失ったあと

カフェもアパートも何もかも失った戦後、清子さんが始めたのは「仕立屋」でした。
職人さんを雇って、その仕事ぶりを自分でも吸収したようです。
希林さんの妹、昌子さんが語ってくれたのは、「着物も洋服もすべて母が作ってくれた」とのこと。


その後、2階建ての一軒家を建てて、自分たちの住む以外の部屋を貸すことになったそうです。
そこにはじょじょに風変わりな人たちが住むようになって、希林さんはここで人間観察をする力を磨くことに。。


終戦から6年後、今度は横浜の野毛で飲食店を経営することになります。
65年経った今も続く名物店「叶家」がそれです。


お店の経営が軌道に乗ってきた頃、泣く泣く手放した息子がお店に訪れ、再会を果たします。
そして、昭和34年、息子夫婦がお店を手伝うことに。
清子さんはこの頃、最初の娘さんも東京に呼び寄せています。


不思議な事に、清子さんは、この最初の子どもたちとお店で一緒に働きながら、希林さんと妹の昌子さんには「遠い親戚」とだけしか伝えず、本当のことを知らせないまま亡くなってしまうのです。


昭和59年、清子さんは74歳で亡くなります。

最後に

希林さんのファミリーヒストリーを見ていて、お父さんの辰治さんのことが印象に残りました。


7歳年下で、清子さんのバイタリティーの影で仕事らしい仕事もしてないような様子だったのですが、清子さんがバリバリ仕事をしていた頃から、趣味の琵琶に傾倒して、結局琵琶の奏者になってしまうのですね。


清子さんの結婚前の二人の子どもたちのことも、東京へ呼び寄せることに理解を示し、協力しているのを見ると、本当に良いご夫婦だったんだと感じます。

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